大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和57年(行ツ)131号 判決

上告人

牧野茂夫

上告人

早川アキノ

上告人

早川愼治

上告人

早川芳則

上告人

早川清正

右五名訴訟代理人弁護士

石井将

谷川宮太郎

市川俊司

鎌形寛之

武子暠文

藤原修身

生井重男

高橋政雄

小川正

山上知裕

被上告人

北九州市長

末吉興一

右指定代理人

駒田英孝

丸山野美次

大庭茂義

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人石井将、同谷川宮太郎、同市川俊司の上告理由について

一論旨は、地方公営企業労働関係法(以下「地公労法」という。)附則四項により地方公営企業職員以外の単純な労務に雇用される一般職の地方公務員(以下「単純労務職員」という。)に準用される同法一一条一項の争議行為禁止規定が憲法二八条に違反しないとした原判決は、同条の解釈適用を誤ったものである、というのである。

二よって考えるに、地方公営企業職員の労働関係について定めた地公労法(一七条を除く。)は、同法附則四項により単純労務職員の労働関係にも準用されるが、同法一一条一項は、「職員及び組合は、地方公営企業に対して同盟罷業、怠業その他の業務の正常な運営を阻害する一切の行為をすることができない。また、職員並びに組合の組合員及び役員は、このような禁止された行為を共謀し、そそのかし、又あおってはならない。」と規定している。そして、同法一二条は、地方公共団体は右規定に違反する行為をした職員を解雇することができる旨を規定し、また、同法四条は、労働組合又はその組合員の損害賠償責任に関する労働組合法八条の規定の適用を除外している。しかし、地公労法一一条一項に違反して争議行為をした者に対する特別の罰則は設けられていない。同法におけるこのような争議行為の禁止に関する規制の内容は、国の経営する企業に勤務する職員(以下「国営企業職員」という。)及び公共企業体職員の労働関係について定めた公共企業体等労働関係法(昭和六一年法律第九三号による改正前のもの。以下「公労法」という。)におけるそれと同じである。

ところで、国営企業職員及び公共企業体職員につき争議行為を禁止した公労法一七条一項の規定が憲法二八条に違反するものでないことは、当裁判所の判例とするところであるが(昭和四四年(あ)第二五七一号同五二年五月四日大法廷判決・刑集三一巻三号一八二頁 名古屋中郵事件判決)、この名古屋中郵事件判決が公労法一七条一項の規定が憲法二八条に違反しないとする根拠として、国営企業職員の場合について挙げている事由は、(1) 公務員である右職員の勤務条件は、憲法上、国民全体の意思を代表する国会において、政治的、財政的、社会的その他諸般の合理的な配慮を経たうえで、法律、予算によって決定すべきものとされており、労使間の自由な団体交渉に基づく合意によって決定すべきものとはされていないのであって、右職員については、労使による勤務条件の共同決定を内容とする団体交渉過程の一環として予定された争議権は、憲法によって当然に保障されているとはいえないこと、(2)国営企業の事業は、利潤の追求を本来の目的とするものではなく、国の公共的な政策を遂行するものであり、かつ、その労使関係にはいわゆる市場の抑制力が欠如しているため、争議権は適正な勤務条件を決定する機能を十分に果たすことができないこと、(3) 国営企業職員は実質的に国民全体に対してその労務を提供する義務を負っており、その争議行為による業務の停廃は国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、又はそのおそれがあること、(4) 争議行為を禁止したことの代償措置として、法律による身分保障、公共企業体等労働委員会による仲裁の制度など相応の措置が講じられていること、の四点に要約することができる。

三そこで、名古屋中郵事件判決が公労法一七条一項の規定が憲法二八条に違反しないとする根拠として挙げた右各事由が単純労務職員の場合にも妥当するか否かを検討する。

1  地方公務員の勤務条件は、政治的、財政的、社会的その他諸般の合理的な配慮により、国会及び地方議会が定める法律及び条例、予算に基づいて決定されるべきものとされている。この場合には、私企業におけるような団体交渉による労働条件の決定という方式が当然には妥当せず、争議権は、団体交渉の裏付けとしての本来の機能を発揮する余地に乏しいのである。右のような勤務条件決定の法理は、既に最高裁昭和四四年(あ)第一二七五号同五一年五月二一日大法廷判決(刑集三〇巻五号一一七八頁 岩手県教組事件判決)において非現業地方公務員につき示されたところであるが、この理は、現業地方公務員たる単純労務職員についても妥当するものといわなければならない。たしかに、地公労法は、単純労務職員に対し団結権を付与している(附則四項、五条。なお、附則四項、地方公営企業法三九条一項、地方公務員法五二条ないし五六条により、単純労務職員については職員団体に関する規定も適用される。)ほか、いわゆる管理運営事項を除き、労働条件に関し、当局側との団体交渉権、労働協約締結権を認めており(附則四項、七条)、しかも、条例あるいは規則その他の規程に抵触する内容の労働協約等の協定にもある程度の法的な効力ないし意義をもたせている(附則四項、八条、九条)。しかし、このような労働協約締結権を含む団体交渉権の付与は、憲法二八条の当然の要請によるものではなく、その趣旨をできる限り尊重しようとする立法政策から出たものであって、もとより法律及び条例、予算による制約を免れるものではなく、右に述べた地方公務員全般について妥当する勤務条件決定の法理を変容させるものではない。

2  単純労務職員の従事する業務は住民の福祉の増進を目的とするものであり、かつ、その労使関係にはいわゆる市場の抑制力が働かず、争議権が単純労務職員の適正な労働条件を決定する機能を十分に果たすことができないのは自明の理である。

3  単純労務職員の従事する業務の種類、内容等は、法律上具体的に限定されていないが、右職員は実質的に住民全体に対しその労務を提供する義務を負っており、その業務は当該地域関係住民の福祉を増進し、その諸生活の利益に密接な関係を有するものであって、それが争議行為により停廃した場合には、行政運営に支障を生ぜしめ、地域関係住民の諸生活の利益ひいては国民全体の共同利益に悪影響を生ぜしめるおそれがあるものといわざるを得ない

4  更に、争議行為を禁止したことの代償措置についてみるに、単純労務職員は、一般職の地方公務員として、法律によって身分の保障を受け、その給与については、生計費、同一又は類以の職種の国及び地方公共団体の職員並びに民間事業の従事者の給与その他の事情を考慮して定めなければならないとされている(地公労法附則四項、地方公営企業法三八条三項)。加えて、地公労法は、単純労務職員が労働委員会に対し労働組合法二七条の規定による申立てをすることができる(附則四項、四条)ほか、一定の場合に同委員会があっ旋、調停、仲裁を行うことができる(附則四項、四条、一四条、一五条、労働組合法二〇条、労働関係調整法一〇条ないし一六条)こととしている。このうち、特に、右の調停、仲裁についてみると、地公労法は、一般の私企業の場合にはない強制調停(附則四項、一四条三号ないし五号)、強制仲裁(附則四項、一五条三号ないし五号)の途を開いており、仲裁裁定に対しては、当事者に服従義務を、地方公共団体の長に実施努力義務をそれぞれ負わせ(附則四項、一六条一項本文)、予算上資金上不可能な支出を内容とする仲裁裁定及び条例に抵触する内容の仲裁裁定は、その最終的な取扱いにつき議会の意思を問うこととし(附則四項、一六条一項ただし書、一〇条、一六条二項、八条)、規則その他の規程に抵触する内容の仲裁裁定がされた場合は、必要な規則その他の規程の改廃のための措置をとることとしている(附則四項、一六条二項、九条)のである。これらは、単純労務職員に対し争議権を否定する場合の代償措置として不十分なものということはできない。

四以上によれば、名古屋中郵事件判決が国営企業職員の場合について、公労法一七条一項の規定が憲法二八条に違反しないことの根拠として挙げた前記各事由は、単純労務職員の場合にも基本的にはすべて妥当するから、地公労法附則四項により単純労務職員に準用される同法一一条一項の規定は、右判決の趣旨に徴して、憲法二八条に違反しないに帰するというべきであり、これと同趣旨の原審の判断は正当として是認することができる。論旨は、ひつきょう、独自の見解を前提として原判決を論難するものであって、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官牧圭次 裁判官島谷六郎 裁判官藤島昭 裁判官香川保一裁判官奥野久之)

上告代理人石井将、同谷川宮太郎、同市川俊司の上告理由

「地方公営企業労働関係法(地公労法)一一条一項は、憲法二八条に違反する違憲の法令である。

然るに、地公労法一一条一項を合憲と判断した原判決は憲法二八条の解釈に誤まりがあり、当然に破棄されなければならない。」

原判決は一〇月八日における上告人らの職務破棄を伴う職場集会(いわゆる「公務員共斗一〇・八統一スト」及び清掃車借用に対する抗議行動への参加、ならびに一〇月二六日における上告人らの勤務時間内の職場集会及び引続き職務を破棄して行われた抗議行動への参加が、いずれも争議行為を禁止した地公労法一一条一項に該当することとし、従って地公法二九条一項一、二号の懲戒事由に該当するとして、被上告人の上告人らに対する本件懲戒処分を認容した。

しかし右懲戒処分の主要な根拠となった地公労法一一条一項は、憲法二八条に違反する違憲の法令であり、本件懲戒処分は取り消されるべきである。

よって、当審に対し、原判決の破棄とさらに相当な裁判を求めるが、その理由は以下に論述するとおりである。

はじめに

今日まで地公労法一一条一項について、その憲法二八条適憲性を真正面から論じた最高裁判例は存在しない。

ところが、原判決は、

地公労法一一条一項と同旨の規定である現行の国家公務員法九七条二項、地方公務員法三七条一項及び公共企業体等労働関係法一七条一項がいずれも憲法二八条に違反するものでなく、右各条項が公務員及び公共企業体職員の争議行為を一律全面的に禁止するものと解すべきことは、最高裁判所の判例(国家公務員につき昭和四三年(あ)第六七八〇号、昭和四八年四月二五日大法廷判決刑集二七巻四号五四七頁、昭和四七年(行ツ)第五二号昭和五二年一二月二〇日第三小法廷判決民集三一巻七号一一〇一頁、地方公務員につき昭和四四年(あ)第一二七五号昭和五一年五月二一日大法廷判決刑集三〇巻五号一一七八頁、昭和五一年(行ツ)第一〇五号昭和五二年一二月二三日第二小法廷判決裁判集一二二号六二七頁、公共企業体職員につき昭和四四年(あ)第二五七一号昭和五二年五月四日大法廷判決刑集三一巻三号一八二頁、昭和五一年(行ツ)第七号昭和五三年七月一八日第三小法廷判決民集三二巻五号一〇三〇頁、昭和五三年(オ)第八二八号昭和五六年四月九日第一小法廷判決民集三五巻三号四七七頁)であり、少くとも本件の如き争議行為禁止に違反した職員の身分上の責任を問うについては当裁判所もこれに従うのが相当と解するところ、右判例の法理は地公労法一一条一項にも妥当し、特に異別に解すべき理由もないと判断される。

として、地公労法一一条一項の合憲性を承認した。

原判決の引用する最高裁大法廷昭和四一年一〇月二六日判決(「一〇・二六判決」)、同五二年五月四日判決(「五・四判決」)は、公労法一七条一項の合憲性を争点にしたものであり、又、同昭和四八年四月二五日判決(「四・二五」)、及び同五一年五月二一日判決(「五・二一判決」)は、それぞれ国公法九八条五項、地公法三七条一項の合憲性が争点となった事案であるが、これに対し本件は、地公法五七条によって地公法の適用除外となった単純な労務に雇用される者(いわゆる「単労」ないし「現業地方公務員」)に対する争議行為を全面一律に禁止した地公労法一一条一項の合憲性が争点となっているのであるから、結局事案を異にし、前記最高裁判決の存在をもって、地公労法一一条一項の合憲性の論証がなされたということはできない。

原判決の地公労法一一条一項合憲判断に対しては、地公労法及び地方公営企業法(地公企法)の制度・趣旨をふまえた労働条件決定のプロセスのトータルな把握、及び現業地方公務員の職務の実態に即した判断が要請されており、いたずらに先例追従のみで問題は処理されない。

従って、我々は、原判決が依拠した最高裁判決が、全く説得力をもたず既に論理的に破綻したものであることを明らかにすることを通じて、併せて地公労法一一条一項の違憲性を論証したい。

(以下の最高裁判例について左の通り略称する。)

一〇・二六(中郵)判決 最高裁昭和四一年一〇月二六日全逓東京中郵事件大法廷判決

四・二(都教組)判決 最高裁昭和四四年四月二日都教組事件大法廷判決

四・二五判決 最高裁昭和四八年四月二五日全農林警戦法事件大法廷判決

五・二一判決 最高裁昭和五一年五月二一日岩手教組学テ事件大法廷判決

五・四判決 最高裁昭和五二年五月四日全逓名古屋中郵事件大法廷判決

第一、最高裁判例批判

――特に五・四判決の「財政民主主義論」批判――

周知のように、最高裁は昭和五二年五月四日全逓名古屋中郵事件判決(五・四判決において、昭和四一年一〇月二六日全逓東京中郵事件判決(一〇・二六判決)を逆転・変更し、公労法一七条一項を合憲と判旨するとともに、禁止違反争議行為に対しては労組法一条二項刑事免責規定は適用されないとした。

この五・四判決は、既に最高裁昭和四八年四月二五日全農林警職法事件判決(四・二五判決)や同五一年五月二一日岩手県教組学テ事件判決(五・二一判決)にみられた最高裁の労働基本権観からは容易に予測されていたものであったが、同じ争議権否認の論理過程については、四・二五、五・二一判決とその基調を同じくしながらも仔細に検討すると理由付けにおいて力点の相違がみられる。その端的なものはいわゆる「財政民主主義論」である。

そして一〇・二六判決、四・二判決と四・二五判決以降の判例は明らかに相対立する論理を有している以上、四・二五判決以降の判例の問題状況は、両者の判例を対比することによって的確に把えられることになる。

一、五・四判決の判例史的位置付

(一) 最高裁労働基本権判例の展開

公務員労働者にかかわる最高裁労働基本権判例の系譜は概ね次の三期に分けられる。

1 第一期(一〇・二六判決以前)

最高裁判所の公務員労働者の労働基本権に関連する判決の系譜をみると、そのリーディングケースは、まず弘前機関区事件大法廷判決(昭和二八年四月八日)、並びに三鷹事件判決(昭和三〇年六月二二日)であった。弘前機関区事件判決では、公務員の争議行為禁止規定の合憲性の理由として最高裁は、「国民の利益はすべて公共の福祉に反しない限りにおいて立法その他国政の上で最大の尊重をすることを必要とするものであるから、憲法二八条が保障する勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利も、公共の福祉のために制限を受けるのはやむを得ないところである。殊に国家公務員は、国民全体の奉仕者として(憲法一五条)公共の利益のために勤務し、且つ職務の逐行に当っては全力を挙げてこれに専念しなければならない(国公法九六条一項)性質のものであるから、団結権、団体交渉権等についても一般に勤労者とは違って特別の取扱を受けることがあるのは当然である。従来の労働組合法又は労働関係調整法において非現業官吏等が争議行為を禁止され、又警察官等が労働組合結成権を認められなかったのはこの故である。同じ理由により本件政令二〇一号が公務員の争議を禁止したからとて、これを以て憲法二八条に違反するものということはできない」と判旨していた。

ここでは抽象的な「公共の福祉」と「全体の奉仕者」があたかも呪文のように用いられているだけであって、その合憲性の論証はまことに安易であり、説得力が欠如していた。

右のような最高裁判所のリーディングケースに対しては昭和三〇年代以後の権利闘争の前進、スト権奪還闘争のたかまり、ILO闘争の進展などから下級審の中でこれに対する批判が生じてきた。そこでは抽象的な公共の福祉の論理操作ではなくして、公共の福祉を実質的に人権相互の比較調整の原理としてとらえ、かつ公務員の職種、職務内容の多様性、ならびに争議行為の実態・態様の現実を直視し、争議行為全面一律禁止処罰規定に憲法二八条の観点からするどいメスが加えられていったのである。こうして公務員法関係では、下級審で禁止される争議行為そのものを限定し、さらにはあおり等の行為を限定していくという二つの無罪判決の系譜が発展し、こうしたなかで地公法六一条四号の刑罰規定を憲法二八条に違反するとする注目すべき判決(大阪地裁昭和三九年三月三一日)も登場するに至った。また公労法関係の判決では、公労法一七条違反の争議行為についても労組法一条二項の適用があるとして刑事罰を否定する考え方が大勢を占めていったのである。

2 第二期(一〇・二六、四・二判決)

しかし、その後最高裁は昭和四〇年七月一四日の和教組専従事件判決の中で労働基本権の「制限の程度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比較衡量し、両者が適正な均衡を保つことを目的として決定されるべきである」として抽象的な公共の福祉から比較衡量=「適正な均衡の原理」へと基本権の制約論を一歩進めたのである(もっとも、この判決は、これを立法府の裁量にゆだね、違憲立法審査権を放棄してしまった)。

そしてこの翌年、周知のように全逓東京中央郵便局事件判決(昭四一・一〇・二六)は労働基本権が生存権に直結する重要な権利であり、「経済的劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段としてその団結権、団体交渉権、争議権等を保障しようとするものである」と判旨し、労働基本権の制限については、国民全体の利益の保障という見地からの内在的制約を有するにすぎないものであるとし、その制限が合憲であるためには必要最小限度でなければならないとする有名な四条件を呈示し公労法一七条違反の争議行為に原則的に刑事免責が及ぶとしたのであった。

これを受けて昭和四四年四月二日の東京都教組事件、全司法事件判決は、いずれも公務員の職種・職務の多様性を考慮し、公務員法の争議行為禁止処罰規定が文字どおりにすべての公務員の一切の争議行為のあおり等をすべて処罰するものと解したら違憲の疑いを免れないと判旨するに至ったのである。その後下級審においてこの判示を発展させ、争議行為に対する懲戒処分を取消す判決が相ついだことはよく知られている事実である。

3 第三期(四・二五判決以降)

ところが右四・二判決の直後、自由民主党はこれに対してはげしい非難と攻撃を加え、これを契機として司法の反動化が相つぎ、自由民主党内閣は最高裁判所の判事をいわゆるタカ派に入れ替えた。こうしたなかで昭和四八年四月二五日全農林警職法事件が八対七の逆転有罪判決となったことも周知のとおりである。

こうして最高裁は四・二五判決を契機とする第三期に至るや、結論的には第一期同様争議行為全面一律禁止合憲に戻ったのであるが、ただその場合第一期のように単なる「全体の奉仕者論」や「公共の福祉論」によって一刀両断的に合憲としたのではなく、そこにいろんな理論的粉飾をこらしていることが特色である。

しかも、第三期の四・二五、五・二一と五・四判決との間には相互において力点の置き処や論理の途筋を異にしており、その点の究明は五・四判決の論理の脆弱性を理解するに重要である。

(二) 五・四判決の論理 四・二五判決との比較において

1 四・二五判決の論理

四・二五判決は冒頭に憲法二八条の意義を説いたうえ、「公務員は、私企業の労働者とは異なり、使用者との合意によって賃金その他の労働条件が決定される立場にないとはいえ、勤労者」であるから、「憲法二八条の労働基本権の保障は公務員に対しても及ぶものと解すべきである。」とし、「労働基本権の尊重」を建前のうえでは強調している。

そのうえで、判決は、「公務員についても憲法によってその労働基本権が保障される以上、この保障と国民全体の共同利益の擁護との間に均衡が保たれることを必要とすることは、憲法の趣意であると解される」とのべ、公務員の労働基本権に対する「国民全体の共同利益の見地からする制約」が検討されている。その「やむをえない制約」を根拠づける理由を、「さしあたり非現業について」詳述すればとして、

(1) 労務提供義務を国民全体に対して負っている「公務員の地位の特殊性と職務の公共性」。

(2) 公共の利益のための「公務の円滑な運営」。

(3) 「国民全体の共同利益」に争議が及ぼす「重大な影響」。

との点に中心が置かれ、さらにこれを補強するものとして、

(4) 勤務条件の法定と議会制民主主義

(5) 民間労組の争議行為とちがって歯どめがない(ロックアウト、経営悪化・失業、市場の抑制力)。

(6) 代償措置も整備されている。

が付加されている。なお、五・二一判決では「右の見解における法理(四・二五判決)は、非現業地方公務員の労働基本権特に争議権の制限についても妥当するものである」とされたのであった。

2 五・四判決の論理の特質

(1) 五・四判決は、先の四・二五、五・二一判決を含めて「事柄の重要性にかんがみ、この機会に、これらの判決との関連を含めて、前記の争点につき当裁判所の見解を示すのが相当であると考える。」として、三判決全体の最終的整理をしている。

五・四判決は、四・二五判決の論理を整理し、その中心に据えたのが、公務員の勤務条件決定に関する「憲法上の地位の特殊性」であった。

即ち、この憲法上の地位の特殊性とは、五・四判決によれば「これを要するに、非現業の国家公務員の場合、その勤務条件は、憲法上、国民全体の意思を代表する国会において法律・予算の形で決定すべきものとされており、労使間の自由な団体交渉に基づく合意によって決定すべきものとはされていないので、私企業の労働者の場合のような労使による勤務条件の共同決定を内容とする団体交渉権の保障はなく、右の共同決定のための団体交渉過程の一環として予定されている争議権もまた、憲法上、当然に保障されているものとはいえないのである。」というのであり、その理は、公労法の適用を受ける、五現業公務員・三公社の職員についても、「直ちに又は基本的に妥当する」というのである。

その結果、「公務員及び三公社その他公共的職務に従事する職員は、財政民主主義に表れている議会制民主主義の原則により、その勤務条件の決定に関し国会又は地方議会の直接、間接の判断を待たざるをえない特殊な地位に置かれていること」になるのだとされる。

このように、ここでの論点の中心は財政民主主義だとされるのであるが、このことは五・四判決によって明らかにされた点である。

そして中心論点となった財政民主主義論とは、憲法八三条の「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」との原則を指し、そのような財政民主主義の下では「その勤務条件は憲法上、国民全体の意志を代表する国会において法律、予算の形で決定すべきもの」とされるのである。

他方、勤労者の労働基本権を保障した憲法二八条は、勤務条件が労使の交渉により共同決定される「勤労者」についてのみ適用されるものであると限定する。その結果、公務員や三公社・五現業の職員の憲法上の地位としては、勤務条件の共同決定を内容とする「団体交渉権」も「争議権」も憲法上は保障されていないことになる。しかし国会が、その立法、財政の権限にもとづいて、公共部門の職員に対し、一定の範囲で、その勤務条件を政府や当局との団体交渉によって決定することを容認したり、争議権を付与することは国会の立法裁量であるといって現行公労法制は、国会が財政民主主義の原則に基づき、使用者としての政府ないし三公社に委任したものに他ならないとしたのである。

(2) そして、四・二五判決が私企業との対比を述べた部分は、公務員の「社会的、経済的関係における地位の特殊性」として位置付けられ、職務の公共性については「加えて」と判示の最後部分に付け足しにされているだけであって、このことは職務の公共性ないし、国民生活全体の利益に対する支障は争議行為全面一律禁止の根拠足りえないことを最高裁自ら告白したものと理解することになろう。

(三) 「無保障」の論理としての財政民主主義論

五・四判決の論理構造は右の通りであるが、五・四判決といえども判決文面上においては四・二五判決との連続性や、公務員も憲法二八条にいう「勤労者」であるという不動の原則は踏襲せざるをえなかったのである。

しかしその実、五・四判決は四・二五判決を大幅に踏み出し、質的に全く異なる論理に転化したといわざるをえない。

即ち、四・二五判決も一応形式的にではあったけれども、第二期の最高裁判例と同じように比較衡量論を採用していた。

「労働基本権につき前記のような当然の制約を受ける公務員に対しても、法は国民全体の共同利益を維持増進することの均衡を考慮しつつ、その労働基本権を尊重し、これに対する制約、とくに、罰則を設けることを最小限度にとどめようとしている態度をとっているものと解することができる。そして、この趣旨は、いわゆる全逓中郵事決判決の多数意見においても指摘されたところである」(傍点代理人)

つまり、四・二五判決でさえ、いまだ団体交渉権・争議権を否定することはできず、その「やむをえない制約」の論理を検討することを建前としていたのである。

然るに、五・四判決の場合には、公務員や三公社・五現業の職員には当初から団体交渉権、争議権が当然保障されているとはいえない、というのであるから、これでは、制約の論理は不必要ということにならざるをえない。

第二期の最高裁判例を通じて問題となったのは、労働基本権に対し、どのような根拠によって、どの程度まで制約が合憲であるのか、という点であり、一〇・二六、四・二判決は国民生活全体の利益との比較衡量において、必要最小限度の制約を課そうとしたのである。

しかし、そのような比較衡量論は本来的に相対的制約論であるが故に争議行為全面一律禁止とは到底相容れない。

争議行為全面一律禁止に固執し、いささかも、制約という概念を入れる余地をなくさせるためには、比較衡量=相対的制約論を完全に放棄しなければならず、又、四・二五判決の国民全体の共同利益=公共の福祉すらも袂別しなければならない。

そこに、団体交渉権、争議権無保障の論理として財政民主主義論が登場せざるをえない背景が存したといえる。

※ 森英樹「議会制民主主義・財政民主主義と労働基本権」(季刊労働法一〇六号六二頁)も、「ただ実のところを推察すれば、全農林判決を下じきにしながらその上にくみたてられた全逓名古屋中郵判決が、他の論理ではなしに、『財政民主主義』をほぼ唯一の論拠として選びとったには、他の論理には拠りきれないことからくる、いわば論理的困難さを、最高裁なりに念頭においていたかも知れない」とされている。即ち、四・二五判決、五・二一判決では、「憲法二八条の労働基本権の保障は公務員に対しても及ぶ」ことは明示的に説いていたし、この点は、一〇・二六判決以前でも自明の理として確認されていたことがらであった。ところが、五・四判決では周到にも、公労法適用職員が「憲法二八条にいう勤労者にあたる」とするだけで、その者に「憲法二八条の労働基本権が及ぶ」との表現はとらず、公労法で規定されている「協約締結権を含む団体交渉権」は「憲法二八条の当然の要請によるものではなく」、国会による委任の結果にすぎないとしている。端的にいえば、四・二五判決ですら公務員労働者に対する労働基本権の是認から出発し、つぎにその制約を論ずるという手法をとっていたのに対し、五・四判決では、当該労働基本権のうち団体交渉権、争議権をまず否認してかかり、しかる後にその「付与」を論ずるという手法をとっていること、その点に五・四判決の「画期的」な「新しさ」があったのである。このような過去との判例ときわだった対比を示す五・四判決にとっては、したがって、四・二五判決が(これまた枕詞であったとはいえ)述べていた、労働基本権に対する「必要やむをえない限度の制限」とか「国民全体の共同利益を維持増進することとの均衡」といったこと――労働基本権の「是認」から出発するから、このような表現をともかくも必要とした――は、もはや枕詞的表現としてすら必要でなくなったのである(五・四判決は、「二、公労法一七条一項の合憲性」の「(四)」の部分で四・二五判決の「国民全体の共同利益との均衝」を述べた部分を引いているが、これは四・二五判決においても五・四判決においても、主に「代償措置」を論じた部分である)。公務員労働者の労働基本権をあれこれの制約論理の結果として否認するのでなく、論理の出発点で否認してかかるこの手法は、判決史上はじめてのことである。

(四)小括

右に述べた問題点からみて、五・四判決を克服しての地公労法一一条一項の適憲性審査は、

(イ) 公務員も憲法二八条の保障を受ける「勤労者」であることの確認の上に、

(ロ) 人権制限一般の基本原理たる必要最小限度原則を基盤に据え、

(ハ) 公務員に対する労働基本権の制限立法の審査については、具体的に比較衡量に依るべきである。

ということになる。この点は、第二で詳述する。

二、五・四判決の問題点とその批判の視点

(一) 出発点としての公務員の「勤労者」性の確認

四・二五、五・二一判決が挙げた公務員の地位の特殊性を強調する論理は、結局において憲法二八条の労働基本権の保障は公務員にも及ぶという両判決自体が大前提にすえている基本命題を無意味なものとしてしまう。現にこの論理をおし進めていった五・四判決は、公務員を憲法二八条の保障の埓外に放遂する結果に至っている。つまりこのような論理は、四・二五判決の五裁判官反対意見が批判しているように、「すべての国民に基本的人権を認めようとする憲法の基本原理と相容れず、とくに憲法二八条の趣旨とは正面から衝突する可能性を有するもの」なのである。憲法二八条が生存権保障を基本理念とし、勤労者の生存確保のための重要な手段として団結権、団体交渉権、スト権を保障しており、且つ公務員もまた勤労者に含まれると解される以上、公務員に対しても右の労働三権が可能な限り広く保障されなければならないというのが、憲法二八条の趣旨であると解さねばならない。一〇・二六判決と四・二判決は、多年にわたる下級審の検討と判例のつみ上げの上に、まさにそのような確認に到達したのであり、それをすべての論議の不動の出発点にすえたのである。四・二五判決以降の最高裁判例は、中郵判決や四・二判決がなぜにあのような見解に到達したかということを顧みずそこからなにものをも汲みとっていない。

この点について、五・四判決において団藤裁判官が「われわれは、何よりもまず、公務員も憲法二八条にいわゆる『勤労者』であり、同条の規定する『団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利』は、公務員にも基本的に保障されるべきであるという認識から出発しなければならない」とし、環裁判官も「現行法令の解釈にあたっては、公務員はもともと労働基本権の保障がなく、現行法上限られた範囲で与えられているのは、法律が、憲法二八条の規制とはなれて、立法政策として恩恵的に与えたものとする前提に立つべきではなく、逆に、ほんらい公務員も、その保障を享有するとの前提に立つべきであり、この前提をとることには、現実にその基盤があるというものである。そして、この実定法解釈の基本的態度の差は、結論に微妙に影響すると考えられるので重要である」と述べられた点を想起すべきである。

(二) 勤務条例法定主義と憲法二八条の両立

(1) その勤務条件の決定が議会に委ねられているという公務員の地位の特殊性は、はたして憲法二八条と両立しないのであろうか。この点についても、先ず「勤労者」性の確認から出発すべきであろう。

四・二五、五・二一判決は「議会制民主主義」を五・四判決が「財政民主主義」をそれぞれ標榜し、それでもって公務員らの争議行為を否定しようとしているが、右にいう「民主主義」とは、結局のところ「勤務条件が国民全体の意思を代表する国会(地方公共団体にあっては議会)において、法律(条例)、予算の形で決定されている」ことの意味合いでしかない。

憲法二八条に保障された争議行為を背景とした団体交渉が、勤務条件法定の建前によって否定されることを説明する憲法上のレトリックとして、「民主主義」なる用語が用いられたのである。

従って、勤務条件の法定と憲法二八条が何ら矛盾しないものであることを先ず論証しなければならない。

(2) 現代社会国家は、この資本制社会において労働力商品しか有しない「人格者」を労働者と規定し、労働条件の取引の場で、市民法のもとで存在する実質的事実的不平等の調和を意図しているが、現代社会国家は一方においてはこの調和を国家自らの介入によって行なおうとしており、他方においてはその自主的な力によって労働者自らをして行わせようとしている。

即ち、勤務条件の法定(但し、最低基準の法定であるが)宣言する憲法二七条二項は、まさしく国家が権力的に介入して調和を図ろうとするものであり、これは労働運動の高揚が労働保護立法の制定を促した事実と照応する。

他方、団結権等の労働基本権の保障を規定する憲法二八条は、労働者自身をして、自主的な力によって調和を行なわせようとしたのである。

この現代資本制国家において労働者の生存権の保障を実効あらしめるための手段は、現行憲法上は、

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という二側面において図られているのである。

従って、公務員は憲法二八条の「勤労者」であると承認するのであれば、右の「勤労者」性(=労働者性)の承認は、原則として、その勤務条件決定において、

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という二側面での実効手段が図られていることを意味するはずである。

一〇・二六判決が憲法二八条の労働基本権保障の趣意につき、

「憲法二八条は、いわゆる労働基本権、すなわち勤労者の団結する権利及び団体交渉、その他の団体行動をする権利を保障している。この労働基本権の保障の狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で憲法二七条の定めるところによって勤労の権利および勤労条件を保障するとともに他方で憲法二八条の定めるところによって経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等を確保するための手段としてその団結権・団体交渉権・争議権等を保障しようとするものである。

と判旨したのは、右に述べた当然の事理を明らかにしたにすぎない。

(3) もとより、議会制民主主義が公務員の労働基本権に対する一つの控制原理となりうるとしても、その本来の要請として、公務員労働者の勤務条件を全て――ここで「全て」といった場合、あらゆる勤務条件の全ての内容、事項にわたって、かつ決定過程の当初から最終決定の段階まで全てにわたって、という二つの事柄を含むことになるが――国会及び議会で決定すべきことを内容としているから、最大の問題点となる。

そこで先ず国家公務員の勤務条件の法定を規定したとされる憲法二七条二項と憲法二八条との関係を検討してみる。本来、憲法二七条二項の勤務条件基準法定主義は、憲法二五条の生存権保障を基礎としつつ、憲法二八条の労働基本権保障と何ら矛盾しないものであることはいうまでもない。

ただ、四・二五判決は、国家公務員の勤務条件について、内閣が行なう事務の一つとして「法律の定める基準に従い、官吏に関する事務を掌理すること」(憲法七三条四号)を揚げている。しかし、この規定は直接的には明治憲法下における官吏関係の規律についての勅令主義に対する反省的表現であって、内閣の官吏に対する人事管理権の行使を法律の定める基準によらしめることを意味するにすぎない。したがって、まず「官吏」以外の国の公務員や地方公務員については、憲法の次元で事柄を見るときには、なおも憲法二七条二項の妥当するところである。つぎにまた、「官吏」についても、「官吏」が憲法二八条にいう「勤労者」(労働者)とされるかぎり、憲法二八条や二七条二項が妥当するのであるが、内閣の事務としての官吏事務の掌理が「法律の定める基準」に従って行なわれるかぎり、そのかぎりにおいて、右の「基準」を定める法律は、実質上、公務員の勤務条件の基準を定める法律ともなるのである。換言すると、憲法二七条二項の法律と七三条四号の法律とは、もともとその趣旨・目的を異にするものであり、勤労者とされる公務員の勤務条件については、一般的には二七条二項の法律がその基準を定めるものというべきであり、七三条四号の法律は、そのことを前提にし、かつ、それと矛盾しないかぎりにおいて、公務員の勤務条件の基準にもかかわってくるものと解されるのである。

いずれにしても、このような公務員または一般に勤労者の勤務条件についての基準法定主義の現行憲法における採用は、現代社会における労働関係または、公務員関係における使用者による不合理な主観的・恣意的支配を抑制し、もって勤労者の勤務条件を一定の範囲と程度において客観化しようとしたものであるという一面を有することは、ほとんど異論のないところであろう(その意味では、労働者保護規定としての性格をも有するのである)。

しかし、右の勤務条件の基準法定主義は、一般的には、憲法二八条となんら抵触することなく認められているところであることは、現行法を民間労働者について見れば明らかである。然るに四・二五判決にみられるとおり、公務員の場合、勤務条件法定主義が右の基準法定主義と混同されることによって、労働基本権との関係において問題とされてきたのである。

公務員の場合に、憲法七三条四号の意味を出すことは凡そ公務員の勤務条件決定方式について特別なインパクトを持つものではない。公務員の勤務条件については、憲法自体、基準法定主義を採用しているにすぎないとみるべきなのである。

従って、勤務条件の法定(但し、それは基準であるが)は、憲法二八条の保障を論外とするものではない。先ず、この点を認識することが必要である。

※ 蓼沼謙一同教授は「四・二五判決の五裁判官意見が、憲法七三条四号について『公務員の……勤務条件に関する基準が逐一法律によって決定されるべきことを憲法上の要件として定めたものではない』というのは、正確ではない。公務員の勤務条件については、その基準はすべて法律で決定されるべきであるが、それは大綱的基準にとどまるべきであり、そのもとで団交――協定による勤務条件の具体的決定がなされ、協定にもとづく国費の支出について財政民主主義に基づく制約があるというのが、憲法二八条、七三条四号、八五条の整合的解釈による憲法上の要請なのであり、団交――協定による具体的決定の余地のない勤務条件基準の細目にわたる決定は憲法違反と解すべきなのである。」とされている(「名古屋中郵判決における公労法一七条の合憲論の検討」ジュリストNo.六四三)。

(三) 財政民主主義は争議権否認の根拠とはなりえない。

(1) 公務員の勤務条件は、議会制民主主義及びその財政面でのあらわれである財政民主主義の要請から、労使間の自由な交渉に基づく合意によって決定されるのではなく、国民の代表者により構成される国会・議会の法律の形で決定されるべきであるといった場合、民間私企業労働者の労働条件決定方式と異なり、国民の財政に対する民主的統制という要請を受け、労使交渉の合意によって、直ちにかつ最終的にその勤務条件が決定されるということになっていない、ということを意味するのであれば、その限度でのみ一理はあろう。

しかし、それは公務員について、その勤務条件に関し国会が法律や予算の形で最終的に決定するということであって、そこに至るプロセスの中で、公務員の団交権ないし争議権をどのように位置付けるかということ、即ち、公務員労働者にも、基本的人権として憲法二八条労働基本権の保障が認められるべきだとする要請と、議会制民主主義との調和をどのように図るかということが、現代の民主主義的な勤務条件決定のあり方というべきである。

もっといえば財政民主主義は、交渉権・争議権と直接抵触するものではなく、労働協約締結権、つまり締結された協約の即時的効力をめぐって、かかわりが生じてくるだけである。

(2) ところが五・四判決は、(非現業国家)公務員の場合、その勤務条件は、憲法上法律、予算の形で決定すべきものとされているので、「私企業の労働者の場合のような労使による勤務条件の共同決定を内容とする団体交渉権の保障はなく、右の共同決定のための団体交渉過程の一環として予定されている争議権もまた、憲法上、当然に保障されているものとはいえないのである」と判旨し、五現業公務員ないし三公社職員の場合には、財政民主主義の要請により同様の地位に立つとして、結局、交渉権や協約締結権をも否認せざるを得ない羽目に陥ち入ったのである。

しかしそこまで否定すると、実定法の規定と明白に矛盾することになる。公労法八条は、三公社五現業の職員に対し、団体交渉と協約締結権を保障しているからである。また同法一六条は、協約締結権に対し、まさに財政民主主義の観点から制限を加えているが、その制限は、「予算上又は賃金上、不可能な賃金の支出を内容とするいかなる協約も、政府を拘束するものではない」と定め、このような協約は国会の承認があったときにさかのぼって発効すると定めている。同条は協約締結権に制限を加えているが、その制限は右の限度にとどまっており、協約締結権を全面的に否定するという態度はとってはいない。むしろ同条は、財政民主主義を論拠として公務員の労働基本権の制限を考えるのであれば、同条の程度の制限で足り、協約締結権を団交権を全面的に否定すべき根拠のないことを実定法自体が示したものといってよい。五・四判決は、こうした実定法規自体との矛盾を取りつくるために、立法政策論に救を求めた。即ち五・四判決は、公労法八条、一六条について、次のように説明している。まづ公労法八条の交渉権・協約締結権の付与については、「憲法二八条の当然の要請によるものではなく、国会が、……立法上の配慮から財政民主主義の原則に基づき、その議決により財政に関する一定事項の決定権を使用者としての政府又は三公社に委任したものにほかならない」と強弁した。また、同法一六条については、「これは、国会が右の財政民主主義の原則に基づき、政府又は三公社に対する委任に特別の留保を付したことを意味するものと解すべきである」と説明した。そして、右のような委任を行ったりその委任に留保を付したりすることは、国会の裁量権に属するのであって憲法問題ではないというのである。しかし公労法八条、一六条に関する右の説明はいかにも苦しい。同法八条は、憲法二八条の労働基本権の保障をうけて三公社五現業職員の団交権、協約締結権を確認的に規定したものと解するのが自然であり、同法一六条は国会の委任に特別の留保を付したといったものではなく、三公社五現業の職員の協約締結権に対し、憲法上の財政民主主義との調整をはかるために、それに必要な限度で制限を受けた規定――しかもその場合には、できる限り三公社五現業の職員の協約締結権を実効あらしめるための配慮を伴った形での制限規定と解するのが自然である。

(四) そもそも財政民主主義を規定した憲法八三条の「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。」との規定は、一般に次のように理解されている。

国の財政を処理することは、政府に委ねられているか、その政府の処理権限は、国会の議決を基準としてこれを行使しなければならないという、いいかえれば、第一線における財政処理権限は、行政権の作用に属するか、これをすべて国会の監督のもとにおこうとする趣旨であるとされる。これらを簡潔に表現すれば、国家財政処理の主体である内閣の権限行使に対し、国民主権の側から(その代表者としての国会)のコントロールを行うとするのが財政民主主義の本来的意味である(清宮四郎「憲法Ⅰ」法律学全集二一〇頁以下)。

内閣の財政に関する一般的権限のうち、その主要なものは、憲法七三条の五号にいう「予算を作成して国会に提出すること。」である。つまり、国家財政の根幹をになう毎年度の予算(歳入歳出)の国会に対する作成提出の権限は、現憲法では、内閣の専権に属しているのである。国の財政処理の主要なものは、税金の国民に対する賦課徴収と、国費の支出であるとされるが、その処理の主体は、日常の行政作用を担当している行政府としての内閣が統括する各行政機関であるところからも、当然のこととして予算の作成は内閣が(大蔵大臣が事務主管)決定し、国会へ提案することになっているのである(財政法二一条)。

ただ、そうはいっても財政民主主義の原則によって、国会のコントロールを受けることとなり、憲法八五条が「国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の決議に基くことを必要とする。」と規定している。これらの国費の支出に対する国会の議決は、一般には予算の形式で行なわれることになるが、憲法は八六条の規定で「内閣は毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない」としており、これは、さきにのべた内閣の権限たる七三条五号の予算の作成と対応するものである。

このように、国会の委任によってはじめて内閣の財政に関する一般的処理権限が生まれてくるのではなく、三権分立の基本原理に沿って、もともと財政に関する一般的権限は内閣に専属するという権限分配が予定され、その分配の中でさらに国民主権主義の要請から一定の場合に国会が関与することができるという建前になっているのである。

この国会の関与を実定法的に解釈したのが、公労法一六条、ないし地公労法一〇条の構造であるといえよう。

第二 地方公営企業労働関係法(地公労法)一一条一項違憲

一 争議権とその制約

(一) 争議権保障の意義

1 争議権の本質

労働者の団結・団体行為(争議行為)、そして、労働基本権の保障は、労働者のこの資本主義社会で生きてゆくための手段として歴史的に生成発展し、憲法に法認されたものであった。

公務員の争議行為禁止を合憲とする佐藤教授も、「何故にこれら三つの権利(労働基本権)が生存権的基本権として認められるに至ったかについて特に詳説する必要はないであろうが、それは要するに資本主義経済の発展の必然的結果として使用者に対して経済的弱者たる地位にある労働者に団結して交渉する権利を与えることによって労使間の契約締結の際の実質的不平等を除去し実質的対等の関係を確保せしめようとするにある。」(ポケット憲法一九〇頁)と論じている程この点は自明の事柄である。

団結や団体行動の必要性が生存権の主張と不可分の関係に立つのは、まさに資本主義的労働関係の特性に根ざすものであり、その故にこそ「憲法二八条の保障する勤労者の団結権等は、立法その他国政の上で最大の尊重を必要とし、みだりに制限することの許されないもの。」(最高裁昭和四〇・七・一四大法廷和教組専従事件判決)なのである。

即ち、「憲法二八条は、いわゆる労働基本権、すなわち勤労者の団結する権利および団体交渉、その他の団体行動をする権利を保障している。この労働基本権の保障の狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で憲法二七条の定めるところによって勤労の権利および勤労条件を保障するとともに他方で憲法二八条の定めるところによって経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段としてその団結権・団体交渉権・争議権等を保障しようとするものである。」(昭和四一・一〇・二六大法廷全逓争議事件判決、最刑集二〇巻八号九〇五頁)と、最高裁自ら宣言しているとおり、労働基本権(争議権)は、労働者の人間らしく生きていくための必要な諸条件を実現する唯一不可欠の根源的な基本権なのであり、その事の故に、労働者はいかに弾圧されようとも団結し、争議行為に訴えることをやめようとしなかったのである。争議行為は、この資本制社会にあって決して放棄することのできない、従って如何に法律で剥奪しようとも決して押えつけることのできない根源的な権利なのであり、右最高裁判例もそのことの率直な表明・承認と理解しなければならない。

従って、争議権は手段的権利だから立法上制限されてもよい争議行為は「公共の福祉」に反する場合は立法上これを禁じても差し支えない、などと十把一からげに片付けてしまうのは、甚々しい謬論である。

手段的権利であっても、これが社会の本質に直結するものである場合には、それが絶対に保障されることがあるということは、歴史が証明している。財産権・所有権は本来の手段的権利であるが、ブルジョア革命後はそれが神聖不可侵であるとされたことは端的な例である。我が憲法が二〇世紀的憲法として社会権的基本権思想を付与しようとすれば、労働者の三権に絶対的な保障を与えてはならないという論理必然性はない。むしろ労働者の基本権と財産権とは二八条・二九条に二つ並んで規定されながら、一方には限定が付されていないのであるから(有泉享「労働争議権の研究」九七頁〜九八頁)。

2 労働三権の不可分一体性

然るに、我国現行法は、官公労働者の争議権を明文で全面的に剥奪している。この現行法の建前の詳細な法理論的考察は後に検討するが、労働基本権に対する取扱いとして妥当とは考えられない。団体行動とりわけ争議行為の裏付けのない団結権の保障ということは、組合運動の歴史と労働基本権の生成の事実と論理に全く相入れないからである。

団結権・団体交渉権・争議権は、総称して労働基本権あるいは一口に団結権と一般に呼ばれているように、各々が独立の権利であると同時に相互に関連した不可分一体の権利として実態を持っている。

憲法二八条の労働基本権保障も、もとより団結権・団体交渉権・争議権を不可分一体の権利として法認したものに他ならない。

従って、団結権・団体交渉権を保障したとしても、争議権を剥奪もしくは制限するならば、それはもはや労働基本権を保障したとはいえないことはもとより、団結権・団体交渉権をも保障したことにはならない。即ち、労働者が団結するのはその要求を貫徹するにある。その要求は資本家との交渉(団体交渉権の行使)によって実現される。然しながら団体交渉が所謂交渉と異なっているのは、それが争議権という労働者の実力行使を背後に予定している点にあり、労働者がその実力行使を背景にして、はじめて労使が対等の立場に立つとするのが労働基本権保障の建前なのである。沿革的にも団結権・団体交渉権・争議権とは本来区別なく密接不可分なものとして把えられ、行使されてきたのであった。

従って、団体交渉権が保障されなければ、どんなに団結権が保障されていたとしても、その団結権は団体交渉権を欠くが故に真の実効力あるものとはいえず、また、争議権に裏打ちされない団体交渉権の本来的特性である労働者の実力行使(争議行為)の背景を欠くものであるから、対資本家との交渉権は極めて弱体化されたものとされ、交渉権ひいては団結権も真に保障されたものとはなりえない。

このように、争議権の剥奪ないし制限は、実質的には団結権・団体交渉権それ自体をも剥奪・制限されるに等しく、従って、労働基本権そのものが一体として制限・剥奪されると同様の結果となる。

労働基本権は、労働者が人間としての生存するうえにおいて不可欠唯一の権利として歴史的・社会的に形成・確立せられた権利であるから争議権の制限・剥奪は、労働者の人たる不可欠の権利そのものの制限・剥奪を意味する。

(二) 争議権制約の法理

1 「禁止」と「制限」は本質的に異なる。「禁止」というのは文字通り立法によって人権の行使を全面的に禁止するものであり、「制限」は人権を認めたうえで、その行使にあたって個別的具体的に制約することを意味する。

先ず右の区別を明確させておくことが緊要である。

(なお、ここで「制約」といった場合は「禁止」と「制限」を含めた概念として用いる。)

2 基本的人権一般の制約の法理

基本的人権は憲法上「侵すことのできない永久の権利」(一一条)として保障されている。このことは憲法上基本的人権が最優位の価値を与えられていることを意味する。

しかし、このように憲法上重要な意義を有する基本的人権といえども絶対的に無制約のものではありえない。思想、良心の自由など個人の内心にかかわる自由を除けば、それ以外の基本的人権はその行使によって他の人権と衝突する場合があり得るから、そのような場合には、相衝突する基本的人権の間に調整がはかられなければならないであろう。このような基本的人権間の調整というのは、個人の基本的人権は最大限尊重しなければならないという要請にもとづいているのであるから、いわば全ての国民に基本的人権を保障したことから当然に要請されるものであって、その意味で基本的人権に内在する制約であるといってよい。

しかし、基本的人権に内在的制約があるといっても、その制約は安易に認められるものではない。憲法自身が基本的人権に最優位の価値を認めているのであるから、そのような人権を制約する根拠となるのは他の人権だけであると考えることもできるし、少なくとも個々の国民の具体的な権利、利益を超越した抽象的な利益(例えば、一〇・二六判決は「国民生活全体の利益」を論じているのに対し、四・二五判決は「国民全体の共同利益」として抽象化していることは問題である。)のようなものを根拠として制約を認めることは許されないといわなければならない。

基本的人権の制約のうち、個別の場合に人権の行使を制限するのと違って、ある人権の行使を全面的に禁止する場合(官公労働者の争議行為の全面一律禁止はこの場合にあたる)には、その制約の場合とは質的にちがっている。

即ち、憲法上保障された人権の行使を全面的に禁止する根拠となり得るのは他者の人権をおいてほかにあり得ない。しかも、他の人権と衝突、矛盾をきたすとしても、そのこと故にただちに禁止が肯認されるわけではない。他の人権と衝突、矛盾する場合でも、その両者の衝突を調整するために個別的にその人権の行使を制限するという他の手段、方法がある場合には、憲法が人権を保障した意義に照らし、より制約の少ない手段、方法をとるべきであって、他に制限する手段、方法があるにもかかわらず、ただちに人権の行使を全面的に禁止するならば、その制約は違憲であるといわざるをえない。

つぎに、基本的人権の行使を一定の場合に個別的に制限する根拠についてみても、制限の場合は全面的な禁止とちがってその制約の程度は低いから、相衝突する人権間の調整のためには禁止の場合に比べると一般的にいえば合理性をもち得るであろう。但し、そうはいっても、基本的人権の尊重に最優位の価値を認めている憲法の建前からいって、安易に制限が認められるわけではない。なぜなら、ある人権の行使によって他の人権が侵害されることがあるとしても、その他人の人権の侵害が具体的に想定されるか、または、侵害のおそれが蓋然性をもって想定される場合にはじめて相衝突する人権間の調整という意味である人権の行使を制限することが許されるからである。

さらに、制限の必要性が是認される場合でも、具体的な制限の手段、方法はいくつも考えられるし、また、他の人権が侵害される態様や程度もさまざまである。従ってとりうる制限の手段、方法は他の人権が侵害される態様や程度に応じて当然異なるわけであり、制限される人権の価値と制限によって受ける他者の利益とを合理的に衝量して制限の手段、方法は決められなければならない。この場合も、前述した基本的人権に重要な価値を認めた憲法上の要請からして、人権の行使を制限する手段、方法は必要最小限度のものに止められるべきである。一〇・二六判決は労働基本権の制限について必要最小限度原則を明らかにしたがこの考え方は労働基本権に限らず、他の基本的人権一般についても当てはまるものであり、基本的人権を保障する各国憲法の基本的な解釈原理として承認されているところである。

なお、このような観点からの人権制限の合憲性審査の基準として、「より制限的でない他の選びうる手段」の基準(LRAの基準)は十分に参考に値するものであろう。

3 争議権制約のあり方

基本的人権の制約について論じたところは、労働基本権とりわけ争議権の制約についてもそのままあてはまる。

ただ、次の点が制約を考える際の重要な視点として考えられるであろう。

(イ) 先ず、憲法が労働者に争議権を保障した意義を十分にふまえて相衝突する人権間の調整を考えなければならない。即ち、争議権行使によって侵害される権利・利益と比較衡量されるのは憲法上保障されている争議権であって、その比較衡量の一方にある争議権は憲法上の価値序列の面でも生存権的基本権として高い価値を与えられていることを認識しなければならない。

(ロ) 争議権は、その権利の性質上、社会生活の場において行使されるものであるから、その権利行使によって社会を構成する他の基本的人権と衝突をきたすことがあり得るのは避け難い。

しかし、争議権はその行使によって使用者に損害を与えることはもちろん、第三者に対しても何がしかの損害を及ぼし、迷惑を与えるものであることを前提になおかつ憲法上保障されたものである。

労働者が争議権を行使することによって衝突が想定される他者の権利・利益としては、使用者に対する関係は別として、国民(住民)の日常生活上の単なる便益から、生命・身体の安全や健康といったものまで実に様々なものが考えられる。

しかし、これらすべての利益が争議権制約の根拠となるわけではない。

争議権が労働者の生存権に直結する権利であり、生存を維持・向上させる重要な手段であるという争議権保障の意義を正しく理解するならば、争議権を全面的に禁止する根拠となりうるものは極めて例外的な場合に限られるべきである。争議権を禁止する根拠となるのは、争議権と比較してより高い価値が認められる人権が侵害される場合、例えば、「生命、自由及び幸福追求の権利」(憲法一三条)とか、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法二五条)で保護される法益、具体的には生命・身体の安全とか健康といった人間の生存に密着した法益が侵害される場合である。

(ハ) 従って右以外の法益の場合には禁止以外の制限手段をとることによって十分に調整することができるのであるから、禁止という手段を用いることは許されないといわなければならない。

即ち、争議権の場合に留意すべきは、争議権行使の全面禁止とその他の制限とでは労働者の権利保護において決定的な差異があるということである。争議行為が全面的に禁止されるときは、単に争議権についてだけでなく、労働者の団結権や団体交渉権もその大半の存在意義を失うことになるから、労働者にとっては、争議権に一定の制限が課せられた場合と違って、全面禁止されるならば人間に値する生存が危くなるに至るのである。

争議権の制限については、どのような職種の労働者がどのような態様の争議行為を行なうのか、その争議行為によって侵害される権利・利益の内容はどのようなものであるか等々によって様々な場合が考えられる。従って、争議権の制限が許される場合があるとしたら、それに対応した制限手段が選択されなければならない。

二 争議権制約の合憲的限界

(一) 合憲審査基準としての一〇・二六判決の四条件

右にみた争議権制約のあり方の基本的な考えについては、かつて最高裁も認めるところであった。即ち、一〇・二六判決は、労働基本権について制約されることを認めながら、「具体的にどのような制約が合憲とされるかについては諸般の条件ことに左の諸点を考慮に入れ、慎重に決定する必要がある。」として、労働基本権の制限が許される場合として、いわゆる四条件を示した。

第一条件 「労働基本権の制限は、労働基本権を尊重確保する必要と国民生活全体の利益を維持増進する必要とを比較考慮して、両者が適正な均衡を保つことを目途として決定すべきであるが、労働基本権が勤労者の生存権に直結し、それを保障するための重要な手段である点を考慮すれば、その制限は合理性の認められる必要最小限度のものにとどめなければならない。」

第二条件 「労働基本権の制限は、勤労者の提供する職務または業務の性質が公共性の強いものであり、したがってその職務または業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあるものについて、これを避けるために必要やむを得ない場合について考慮されるべきである。」

第三条件 「労働基本権の制限違反に伴う法律効果、すなわち違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように、十分な配慮がなされなければならない。」

第四条件 「職務または業務の性質上からして、労働基本権を制限することがやむを得ない場合には、これに見合う代償措置が講ぜられなければならない。」

この一〇・二六判決の示した労働基本権制限の論理は、労働基本権問題の正しい発展方向を指し示したものであり、右四条件のうち、とくに第一・第二条件が、前述の争議権制約の基本的視点とも合致することは明らかであろう。それ故に、第一・第二条件を視座に据えての違憲論の展開も下級審では実践されていったのである。

もっとも、前述したいわゆる財政民主主義が(現業)地方公務員の労働基本権を控制する一つの原理になりえたとしても、その控制原理は公務員の労働基本権(とりわけ争議権)を全面的に否定するものではなく、公務員の労働基本権とこれに対する控制原理とはある程度に弾力的なものであり、労働基本権とその程度に関しては、基本的には、第二、一、で詳述した比較衡量の立場に依らねばならない。

即ち、労働基本権が基本的人権として公務員に対しても保障が及ぶことに鑑みれば、基本的人権一般の制約原則である必要最小限度原則とそれをふまえた具体的な比較衡量こそが基底に置かれなければならない。

(二) 労働基本権(争議権)の根源的性格と比較衡量

ところで一〇・二六判決の四条件の第一条件は、労働基本権の制限について、労働基本権を尊重確保する必要と国民生活全体の利益を維持・増進する必要とを比較衡量するとの立場を採りつつ、「労働基本権が勤労者の生存権に直結し、それを保障するための重要な手段である点を考慮すれば、その制限は合理性の認められる必要最小限度のものにとどめなければならない。」としている。

しかし、労働者の労働基本権の行使と国民生活の利益を比較衡量するといっても、自ずと両者は質的に全く異なったものであり、また、比較衡量といっても基準自体が自由にフロートされ設定されたのでは、制約の原理・基準といっても全く意味を失ってしまうことになる。

従って、比較衡量の際に先ずもって留意すべきは、労働基本権の根源的性格――労働者の人間らしく生きるための必要不可欠な手段である権利――生存権実現の手段としての権利たる側面――をふまえればこそ、最大限尊重されなければならず、従って、その反面労働基本権の制限が必要最小限度のものにとどめなければならないと論理必然的に導き出されることである。

比較衡量といいつつも、労働基本権優位の思想を明確にすることが先ず必要である。それはまさに労働基本権の尊重確保こそが原則であり、その制限は例外であることを明瞭に意味する。

(三) 制限の必要最小限度の原則について

(1) 必要最小限度を採る以上、労働基本権制限の必要が生じたとしても、それは制限の必要性の有無・程度・争議行為がもたらす国民生活の具体的な影響の程度を個々の争議行為毎に考察すればよく、争議行為を全面一律禁止する必要性と合理性は全くない。そればかりかどのように考えても全面一律禁止は合理的な必要最小限度のものとはいえないのである。

どんなに公共性が強い職務であっても、争議行為の態様如何、事前措置等によって、国民生活に重大な障害をもたらさない場合は、いくらでもある。従って争議行為を個別に制限の方法を講じることが実はありうるべき争議権制限の姿だといえる。いいかえれば制限されるといっても、それは禁止のみに限らず、当然「より制限的でない他の手段があるか否か」という点についても、考慮すべきであるということである。

即ち、人権の制限は「より制限的でない実行可能な他の選ぶべき手段」によるべきであるとする、いわゆるアメリカ法の「LRAの原則」は、労働基本権の制限においても基本的には妥当する。

(2) ちなみに現行法制上の争議権制約のあり方をみても、事前の争議行為禁止は極めて限られた例外的なものであることが判明する。

たとえば、

① 労調法による制限

(a) 労働関係調整法は、第八条に定める事業を公益事業とし、これらの事業につき、争議行為の事前予告を義務づけ(三七条)、また内閣総理大臣に一定の要件と手続により緊急調整の決定をする権限を与え、この決定がなされた後一定期間(五〇日間)の争議行為を停止している(三五条の二、三八条)。

(b) さらに同法は「工場事業場における安全保持の施設の正常な維持、または運行を停廃し、またはこれを妨げる。」争議行為を禁止している(三六条)。

② スト規制法による制限

「電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律」は、

(a) 「電気事業における電気の正常な供給を停止する行為その他電気の正常な供給に直接障害を生ぜしめる。」争議行為の禁止(二条)。

(b) 石炭鉱業における「保安の業務の正常な運営を停廃する行為であって、鉱山における人に対する危害、鉱物資源の滅失もしくは重大な損壊・鉱山の重要な施設の荒廃または鉱害を生ずる。」ような争議行為の禁止(三条)。

している。

③ 船員法による制限

海上の特殊な危険な業務に従事する船員については、「船舶が外国の港にあるとき、またはその争議行為により人命若しくは船舶に危険が及ぶようなとき。」には、争議行為が禁止される(三〇条)。がそうである。

(3) これらの法制度を通じてみられる争議権制約のあり方を要約すれば、次の三点に整理しうる。

先ず第一に、いずれもいかなる争議行為をも全面的に一律に禁止しているものではなく、一定の業務につき一定の態様の争議行為を禁止し、あるいは争議行為が一定の段階に達したときにはじめて禁止しうる要件を認め、あるいは単に争議行為につき事前予告を要求しているものにすぎない。

第二に、これらの法制度は、いずれも争議行為により国民の生命・身体の安全、あるいはこれに準ずべき国民の生存にかかわる重要な法益が侵害されることを防ぐという観点から、一定の業務につき争議行為を個別に制限していることである。

たとえば、労調法は八条において公益事業の定義に際し、「……公衆の日常生活に欠くことのできないもの。」(第一項)、あるいは「……業務の停廃が国民経済を著しく阻害し、または公衆の日常生活を著しく危くする事業……」(第二項)、として右の観点を採用している。

また、同法三六条の「安全保持の施設」の意味・解釈について、行政解釈が早くから「安全保持の施設とあるのは、人命に対する危害予防もしくは衛生上必要なる施設をいう。」(昭和二二・一〇・二労発第五七号)とし、鉱山におけるガス爆発防止施設・落盤防止の施設・通気施設・墜落防止の蓋柵など鉄道や踏切警報装置などがこれに当るという見解をとり、学説もほとんど反対なく、この見解を支持している。

さらに、スト規制法一条はスト規制の目的として、「電気事業及び石炭鉱業の特殊性ならびに国民経済及び国民の日常生活に対する重要性にかんがみ公共の福祉を擁護するため、これらの事業について争議行為の方法に関して必要な措置を定めるものとする。」としているが、右にいう公共の福祉の内容が同法二条、三条によって、国民の生命・身体の安全あるいはこれに準ずべき国民の生存にかかわる重要な法益の侵害を防ぐという点にあることを看取ることは容易であろう(争議行為の方法に関しての制限であって、全面一律禁止ではないことを、法文上注意的に書かれている)。

第三に、仮に第一に述べた国民の生命・身体の安全等の観点から争議行為が禁止されるとしても、それは決して全面一律禁止という制限方法を合理化しうるものではない。公益事業では「国民生活に重大な障害をもたらすおそれ」との関連からみて、具体的な争議行為の態様ごとに、争議の予告、争議の一時停止、緊急調整などにより、国民生活への重大な障害を避けうるとしており、またスト規制法等によっても国民の生命・身体に直接かかわるような態様の争議行為のみを禁止しているにすぎないのである。

(四) 争議行為と「国民生活」

(1) 第二条件は、「勤労者の提供する職務または業務の性質が公共性の強いものであり、したがってその職務または業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に大きな障害をもたらすおそれのあるものについて、それを避けるために必要、やむを得ない場合について考慮されるべきである。」とされ、その職務の性質・内容によって、その争議行為が国民生活に及ぼす影響が異なるので、その点を考慮すべきことを明らかにしている。

ところで、右にいう「国民生活に重大な障害をもたらすおそれ」が具体的に何を意味するのか、この第二条件自体の抽象的表現のために明確でない。

一〇・二六判決、四・二判決及びその後の下級審判決においても「国民生活」なるものの掘り下げた分析を看過してきた結果、たとえば、「国民生活」との関連において争議行為を制約しうることから、ただちに禁止という形の制限を当然視してしまったり、「国民生活全体の利益」なるものの内味を検討することなく、ほとんど慣用語化してしまったりしている。そして、いつの間にかかつての「公共の福祉論」の化身ともいうべき「国民の迷惑論」にまで下げて理解する下級審判決もあった。

従って、合憲テストの基準としての「国民生活全体の利益」の有効性については、その法的内容、そしてそれが争議権に優越しうる法的価値を有しうるかの検討が必要となろう。

(2) ところで、そもそも争議行為というものは、使用者に対してはもちろん第三者としての公衆に対しても、多かれ少なかれ迷惑をかける行為であり、常に相手方たる使用者および第三者に対する攻撃性・打撃性という属性を本質的に有している。こうした属性をもたない「争議行為」は、労働者の使用者に対する対抗手段としての意味をなさず、およそ争議行為の名に値しないものである。争議行為は本質的に使用者の利益を害し、第三者たる公衆に迷惑をもたらすものであるため、歴史上激しい弾圧を受け、かつ禁止されてきたのである。

従って、争議権の制限を検討する場合、かかる争議権自体の持つ第三者に対する侵害性という本質を当然の事理として承認しなければならず、かかる上での憲法上の争議権保障を考慮に入れなければならない。この点は、生存権実現の手段的権利性から労働基本権の制約を安易に認めた石井照久教授でさえ次のように言っている程である。即ち、「労働三権の制約は、このような国民全体の利益との関係において慎重に判断せらるべきものであるが、それはあくまでも労働三権という労働者の経済的基本権に内在する制約として考察すべきものであり……、右のような厳格な意味での制約としての基準を『公共の福祉』というのであるならば、いずれの立場をとっても問題の解決は実質的には変らないことになる。しかし、『公共の福祉』という言葉は、それ自体きわめて弾力的な内容のものであり、『公共の福祉を守る』ということによって、それ自体その内容が説明せられているような錯覚に導きやすい概念である。それだけにこの漠然とした概念によって労働三権、とくに争議行為の制約を法律的に規整することは危険である。それは、とかく『公共の便宜』というようなことに置き換えられやすい。争議行為は使用者に対してはもとより、第三者たる公衆に対しても、多かれ少なかれ迷惑をかける行為である。公益事業においては特にそうであるが、わが国のように経済底が浅い国では一般産業の場合でも、争議行為は他の産業や公衆に深刻な迷惑をかけやすい。それだけに、公共の福祉ということが安易に採用されてくると、わが国では争議行為を認める余地が、ほとんどないことになる。公衆に迷惑をかけないということを『労働組合の良識』ということ以上に、法律的意味のものとして把握することは、きわめて危険なことであるとともに、労働三権を保障するわが憲法にも適合しないことである。」(法律学全集「労働法総論」三四二〜三四五頁)。

(五) 「国民生活」と争議権制約の限界

(1) さらに、「国民生活全体の利益」との関連で注意すべき点は、労働基本権(争議権)の根源的性格と必要最小限度の原則からみて、仮に国民生活全体の利益が争議行為の制限の根拠となりうるとしても、その実体が生存権実現の唯一不可欠の手段としての権利である労働基本権に優越して、争議行為を制限せしめる程の法的価値を担うのかが論正されなければならない。

ところが、官公労働者の従事する職務とのかかわりの中で、争議行為の結果、国民生活に受ける影響は行政事務の停止であり、その他公的施設等サービス業務の停止、国有・公有財産の管理業務の停止、教育活動の中断、その他運輸・通信業務の中断等いろいろあるが、それらはいずれも国民の生存ないし生活の基盤までをも直接に破壊せしめる性質のものでは決してなく、日常生活上の便益の一時的喪失といった付随的かつ副次的な性質のものにすぎない。

とすれば、「国民生活」上の不利益一般が争議権制限の根拠となるのではなく、争議権が生存実現の手段としての権利であるとする把握との関連で、他の国民の生存権的利益尊重との質的な比較衡量の問題になってくる。

(2) 従って、もともと争議権行為を禁止しうる契機として想定されるものは、

① 生存権実現の手段としての争議権に優越しうる法益を担ったものであり、

② 一旦それが侵害されたならば回復することのできない性質のもの、

でなければならない。

この種の法益として考えられるのは、具体的には他者の生命・身体の安全とか健康といった人間の生存に密着した法益であり、またそのことに着目して争議行為禁止を定めているのが既にみた労調法三六条であった。

(3) もっとも、そのように述べたからといって、かかる法益のみが争議権制限の根拠としてなりうるのであって、その他の法益――日常生活上の便益等――については一切考慮しなくても良いというものではない。「国民生活」上の不利益が何らかの形で法的に配慮されなければならない場面が生じてくることは否定しえない。

しかし、その場合であっても、それらの「国民生活」上の不利益は、基本的には禁止以外の他の選ぶべき手段によって十分に調整することが可能であるから、原則として禁止という手段を用いることはできない(現行法上の争議権制限のあり方を参照すれば、そのことは直ちに判明する。)。

仮に、「国民生活」上の利益が争議行為そのものの禁止という事態を要請する場合があるとすれば、それは争議行為が長期化し、単に日常生活上の便益の一時的喪失にとどまらず、国民の生存ないし生活の基盤までをも破壊する明白かつ現在の危険への質的転化の段階においてであるといわざるをえない。

そのような事態はまさに例外的事態であり、例外的事態の発生の可能性をもって原則的争議行為禁止の根拠にすることは本末転倒のそしりを免れない。

三 地公労法一一条一項は憲法二八条に違反する。

最高裁は、これまで少なくとも地公労法一一条一項の憲法二八条適憲性について直接判断を下したことはないから、五・四判決の立場がストレートに地公労法一一条一項の場合にも妥当するか否かについては、地公企法、地公労法の実定法や現業地方公務員の実態に即した実証的な検討を必要とする。

(一) 財政民主主義と現業地方公務員

(1) 先ず、現業地方公務員のうち、地方公営企業職員について考えてみる。地公企法によれば、地方公共団体は地方公営企業の業務を執行させるため「企業管理者」を設置することになっているが(七条)、管理者は地方公営企業の業務を執行し、当該業務の執行に関し当該地方公共団体を代表することになっている(八条)。

そして、管理者の担任する業務内容については、地公企法は、

「一 その権限に属する事務を分掌させるため必要な分課を設けること。

二 職員の任免、給与、勤務時間その他の勤務条件、懲戒、研修及びその他の身分取扱に関する事項を掌理すること。

三 予算の原案を作成し、地方公共団体の長に送付すること。

四 予算に関する説明書を作成し、地方公共団体の長に送付すること。

五 決算を調製し、地方公共団体の長に提出すること。

六 議会の議決を経るべき事件について、その議案の作成に関する資料を作成し、地方公共団体の長に送付すること。

七 当該企業の用に供する資産を取得し、管理し、及び処分すること。

八 契約を結ぶこと。

九 料金又は料金以外の使用料、手数料、分担若しくは加入金を徴収すること。

十 予算内の支出をするため一時の借入をすること。

十一 出納その他の会計事務を行うこと。

十二 証書及び公文書類を保管すること。

十三 労働協約を結ぶこと。

十四 当該企業に係る行政庁の許可、認可、免許その他の処分で政令で定めるものを受けること。

十五 前各号に掲げるものを除く外、法令又は当該地方公共団体の条例若しくは規則によりその権限に属する事項」(九条)

を規定している。

従って地方公営企業の管理者は地方公営企業の経営について大幅な裁量・決定権を有しており、この意味で当事者能力は管理者に属するというべきである。

一方、地方公営企業の財務関係をみると、経理は特別会計でもって処理されることになっているが、

(一七条)

「一 その性質上当該地方公営企業の経営に伴う収入をもって充てることが適当でない経費。

二 当該地方公営企業の性質上能率的な経営を行っても、なおその経営に伴う収入のみをもって充てることが客観的に困難であると認められる経費。」

等のいわゆる投資的経費については、地方公共団体の一般会計等から負担されることになっているが、それ以外については当該地方公営企業の経営に伴う収入をもって充てなければならないとして、独立採算制を堅持している(一七条の二)。

その結果、予算については、成程予算の調整権は地方公共団体の長に存するが、しかし、地方公営企業の予算は、「地方公営企業の毎事業年度における業務の予定量並びにこれに関する収入及び支出の大綱を定めるものとする。」とし(二四条一項)、しかも予算の原案・説明書の作成権は管理者に属し、収入支出予算の弾力条項として「業務量の増加により地方公営企業の業務のため直接必要な経費に不足を生じたときは、管理者は、当該業務量の増加に因り増加する収入に相当する金額を該企業の業務のため直接必要な経費に使用することができる。」(二四条三項)との規定をも置いている。

なお、地方公営企業の予算は議会の議決を必要としているが、この議決を要するのは款・項の大枠のみである。

又、五・四判決の基本的な柱は「三公社は法人格こそ国とは別であるが、その資産はすべて国のものであって、憲法八三条に定める財政民主主義の原則上、その資産の処分、運用が国会の議決に基づいて行なわれなければならない」という点にあったが、地方公営企業の用に供する資産の取得、管理及び処分は、管理者が行なうものとされ(三三条一項)、地方自治法九六条一項六号及び七号、同法二三七条二項は適用されず、議会の議決を要しない(四〇条)。

従って資産の取得及び処分については、長の承認も議会の議決も個々的には要しないものとされ、管理者の自主性の強化が図られている。

ただ、重要な資産の取得及び処分については毎事業年度の企業運営の目標を定める予算で定めなければならないとし(三三条二項)、議会の民主的統制との調和を図っているにすぎない。

(2) 次いで、地方公労法の適用のある地公労法三条二項規定の職員、ならびに同法を準用される単純労務職員の労働関係・身分取扱いについては、非現業地方公務員と異なり地公労法(一七条を除く)及び地公企法三七条から三九条までの規定が準用される。

その結果、地公企法三八条四項により、職員の給与の種類及び基準は条例で定めることになっているが、これは抽象的なものであって、具体的に賃金その他多くの部分は地公労法七条によって団体交渉の対象とされており、これに関し労働協約を締結することができる。

もっとも労働協約については、地公労法一〇条によって条例及び予算上の制約があり、議会による予算措置が伴なわなければ、右協約は当該地方公共団体を拘束せず、かつそのような協約に基いて資金を支出してはならないが、このような場合も、当該地方公共団体の長は、協約締結後一〇日以内に事由を附し、これを議会に付議して、その承認を求めなければならないことになっている。

(3) このように地方公営企業の職員や単純労務職員等については、いわゆる非現業の地方公務員の勤務条件決定の過程と異なり、明文上も労働基本権の制限の程度も緩和されているのである。

従って、五・四判決が問題とした財政民主主義との二者択一的衝突は生じない。即ち、先ず自治体当局側に労使関係上の使用者としての地位を認めることに異存しないはずである。そして右にいう使用者としての自治体当局との間で、給与等勤務条件を決定する場合、財政民主主義の要請により、条例・予算として議会の議決を経なければならないが、その際使用者としての自治体当局に条例・予算の作成、提案権が固有の権限、専権として認められていることを看過すべきではない(特に予算について、地方自治法一一二条一項)。

即ち、予算作成・提案という固有権限を前提としての労使交渉、協約締結は十分意味あるものとして位置付けられるし、又団交の結果、給与に関する協定が組合と当局との間に成立しても、その協定にもとづく費用の支出が法律上または予算上不可能であり、その支出について議会の承認を要することが明らかであったにしても、しかし、このことから現業地方公務員についての団交は無意味であるとか、財政民主主義の原理は給与に関する組合と当局との間の団交を当然に否定するとか、きめつけることができない。既述した通り憲法二八条との関連で、条例・予算による現業公務員の勤務条件決定はできるだけ「大綱」的基準の設定にとどめ、その具体化は団交――協定に委ねるのが憲法上の要請と解すべきであり、ただこの場合に協定にもとづく費用の支出については、財政民主主義の原理に基づく制約があると解すれば必要にして十分である。まさに、現行地公労法一〇条はその調和を目的としたものである。とすれば、右のような枠組みの中で、争議行為を認めることは、何ら「機能不余地」でもなく、議会に対する「不当な圧力」ともならないはずである。

なお、五・四判決における環裁判官の反対意見が

「たしかに公務員の実質的な使用者は国民全体である(全農林事件判決も、非現業公務員につきこのことを明らかにしている。)から、前記栗山裁判官の説かれるように、公務員の労使関係においては、私企業におけると同様な労使それぞれの、独立する経済的利益追求の意思が存在するとはいえず、理念的には、団体交渉を通じての労使の自由な意思の合致、すなわち協約による労働条件等の自主的解決の方式を容れる余地がないようにみえる。しかし、そのことを根拠として公務員に対する憲法二八条の定める団体交渉権の保障そのものを否定し去る見解は、あまりにも理論にとらわれ、現実を無視するものであって憲法の解釈として正当だとは考えられない。使用者たる国民全体の意思といっても、実定法上は、政府あるいは公社等、使用者とされるものの意思であり、窮極的には国権の最高機関である国会の意思であると考えるほかはない。国会が公務員と、実定法上国民を代表する使用者たる政府等との間の労使関係に対して、全く第三者の立場に立つものと解するのは妥当でない。そして、この国会を頂点とする政府、公社等の、その時々における使用者としての意思は、多くの政治的、政策的要素を考慮して形成されるものであるから、これと現実的、具体的に対立する公務員側の意思が、一つの要素としての形成に事実上影響することは否定できない。すなわち現実には私企業に近い労使の意思の対立の存在が認められる。従って私企業における団体交渉と、その結果としての協約の締結の方式を、合理的な修正を施した上で公務員関係の実定法にとりいれることは、憲法二八条の保障の実際的な具現であり、公務員の性格と矛盾するものとは思われない(勿論このように考えるからといって、現行実定法の規定にかかわらず、公務員が国会、政府に団体交渉を求めることができるというのではない。それは、現行法令の解釈にあたっては、公務員はもともと労働基本権の保障がなく、現行法上限られた範囲で与えられているのは、法律が、憲法二八条の規制とはなれて、立法政策として恩恵的に与えたものとする前提に立つべきではなく、逆に、本来の公務員も、その保障を享有するとの前提に立つべきであり、この前提をとることには、現実にその基盤があるというものである。そしてこの実定法解釈の基本的態度の差は、結論に微妙に影響すると考えられるので重要である。)。」

としたのは、憲法二八条の調和をふまえるもので正しい視点だということができる。

(二) 地公労法適用職員の職務内容と争議権の制限

企業会計関係(交通・電気・ガス・水道など)一七万人と事業会計関係(港湾整備・病院・宅地造成など)二〇万人の合計三七万人(地方公務員全体の12.4%)及び単純労務職員約三五万人、以上合計七二万人は地公労法が適用されるが、争議行為は全面的に禁止されている(但し、禁止違反に対する罰則はない)。

1 地方公営企業職員について

昭和四八年における地方公営企業の総数は六、九二六事業で、その区分並びに事業別職員数の割合等は以下の通りである(地方公営企業年鑑第二一集)。

事業別職員数

事業

人数

病院

125,117人

40.3

水道

71,683

23.1

交通

60,586

19.5

公共下水道

22,626

7.3

観光施設

6,105

2.0

宅地造成

5,861

1.9

工業用水道

3,461

1.1

港湾整備

2,617

0.8

電気

3,038

1.0

その他

9,206

3.0

(総数)

310,300

100.0

事業別区分

事業数

上水道

1,709事業

24.7

工業用水道

84

1.0

交通

136

2.0

電気

34

0.5

ガス

73

1.1

病院

703

10.9

簡易水道

1,792

25.9

公共下水道

393

5.7

港湾整備

179

2.6

市場

138

2.0

と蓄場

362

5.2

観光施設

629

9.1

宅地造成

504

7.3

有料道路

38

0.5

駐車場

94

1.4

その他

58

0.8

合計

6,926

100.0

これらの事業については、全ての自治体が等しくこれらを行っているわけではなく、ある自治体では公営企業で行うが他では民間が行う事業もあり(例えばガスなど)、民間企業と併存して行う事業もあり(例えば交通・病院など)、また国民生活との関連が極めて稀薄な事業もある(観光など)。

以下に主要な事業について公共性の程度を分析してみよう。

(1) 交通事業

Ⅰ 総事業数一三六の内訳は以下の通り。

路面電車 八

自動車運送(バス) 五三

高速鉄道(地下鉄) 八

懸垂電車 二

船舶運航 六四

簡易軌道等 一

Ⅱ これらの地方公営企業交通事業のうち、軌道・地方鉄道事業・自動車事業の民間を含めた公益交通事業に占める地位は、年間輸送人員をみると、軌道事業においては地方公営事業の占める割合は全体の一五%、自動車輸送事業においても全体の二五%を占めるにすぎない。

Ⅲ また首都交通圏における交通機関別輸送人員のうち、公営交通機関(都営バス・地下鉄など)の年間輸送人員は全体の6.1%を占めるにすぎず、また国鉄は全体の24.2%を占めるから全体の約七〇%は民間の交通機関によっていることになる。

Ⅳ このように見てくると、地方公営の交通事業は、基本的には全体としての都市交通機関の一分野を占めるにすぎず、しかも多くは民営交通機関と併存している。

(2) 電気供給事業

事業数は三四であるが、これらは全て水力発電であり、殆どが都道府県営(三一事業)で、電力会社への卸電気事業である。

わが国の昭和四八年度の全電気事業による年間電力量の割合は、水力15.2%、火力82.7%、原子2.1%であり、このうち地方公営企業の電気事業の占める割合は、水力発電の8.5%、全体の僅か1.3%にしかすぎない。

(3) ガス供給事業

地方公営ガス事業のわが国のガス事業全体に占める地位は、販売量では全体が六、一一六百万立方メートル、公営は二四六百万立方メートル(4.0%)、需要家戸数では全体が一二、六八七千戸で公営が五一七千戸(4.1%)にすぎない。このように圧倒的に大部分のガス事業が民営であり、とくに大都市においては殆どが民営となっている。大手三社(東京ガス・大阪ガス・東邦ガス)の販売量は全体の七五%を占めており、これらを含め民営はスト権が保障されている。

(4) 病院事業

わが国の全病院に占める公立病院の地位は、全国八、一三四病院のうち九四二病院、11.6%であり、大都市においては公立病院の占める割合はより低い。

(5) その他

以上のほか自治体事業として水道、公共下水道、工業用水道、港湾整備、市場、と蓄場、観光施設、宅地造成、有料道路、駐車場整備、採石、有線放送、林業・製材、蓄産、自動車学校、骨材製造、住宅建設等の事業がある。このうち水道事業については給水等の業務は、直接、生命・健康・安全に関わるものであるが、その余の部分は総じて職務の一時的停廃が国民生活に与える影響は少なく、公共性の程度は低いということができる。

2 単純労務職員について

これに属するものとして清掃事業職員、学校関係の給食調理・用務・警備等の職員、病院関係の給食・消毒等の職員、試験研究機関・土木関係等の現業職員、その他用務員、運転手、タイピスト等の現業職員などで、合計約三五万人である。

(1) 清掃事業

清掃事業に従事する地方公務員数は約九万人、さらに委託、許可による民間清掃業者の従業員数は約五万三千人で合計一四万三千人が清掃事業に従事し、民間委託、許可の傾向は強まっている。

昭和四七年度における一般廃棄物(ごみ・し尿)の収集の事業形態別内訳は別表の通りである(昭和四九年版厚生白書二九九頁)。

し尿の収集

ごみの収集

市町村による

直営

kl/日

21,586

23.5

t/日

54,991

72.8

委託

26,801

29.2

13,909

18.4

許可業者による

43,383

47.3

75,544

8.8

91,770

100.0

75,544

100.0

(昭和49年厚生白書による)

し尿収集は民間(委託・許可)が76.5%、ごみの場合27.2%を占めている。

清掃事業は、業務の停廃が長期間に及ぶとき国民生活への支障が考えられるが、右のごとき民間業者への下請、混在の形態を考えれば、地方公務員のみにつきストライキの全面禁止をする合理性は存しない。

(2) その他の単純労務職員については、概して職務の一時的停廃が国民生活へ重大な支障をもたらすおそれはなく、またこれらの部門における民間への下請け、混在の傾向が見られる。

3 以上のように、地方公営企業職員や単純労務職員については、その職務内容自体からみて、或いは民間企業との併存等の事情から、禁止の合理性を欠くものが大部分であり、制限の必要がないか、ないしは他の制限手段によって国民生活に対する重大な障害を避けうるのであって、大部分が禁止に理由のないものということができる。

(三) 地公労法一一条一項違憲

既に検討してきたような争議権の制限は必要最小限度に止めるべきだとする原則、ないし「LRAの原則」や、禁止に該当する職務とは一体何であるか、地公労法適用下の職務内容に該当するものがあるかという点に照らせば、制限の必要性の有無と制限の程度を個々の争議行為毎にその具体的な影響を考慮しつつ検討すればよいのであって、にもかかわらず、全ての争議行為を一律に禁止した地公労法一一条一項の規定は明らかに不合理な規定であり、憲法二八条に違反する違憲無効の法令である。

おわりに

以上、検討した通り、現行地公労法一一条一項は違憲であり、にもかかわらずこれを合憲とする前記最高裁判例には余りにも論理的欠陥があり、到底これを是認できるものではないことは一見して明白である。にもかかわらず、前記最高裁判決が既に定着し、理論的問題にも終止符が打たれたとする一部の見解もある。しかしかつて争議行為全面一律禁止規定が違憲であるとの途を開いた一〇・二六判決も、四・二判決も、決して最高裁判事たちの偶然の思いつきでないのはもちろんのこと、単なる抽象的思惟の産物ではなく、押しとどめ難い時代の流れを受けて、官公労働者の労働基本権をこれ以上抑圧し続けることの無理をそれ相応に感得した結果にほかならない。こうした裁判官の頭脳に投影される一つの時代基盤は、四・二五判決や五・四判決の揺り戻しにもかかわらずとうていこばみきれるものではない。

四・二五判決も五・四判決も、それは意図的な最高裁判所判事の多数派工作の直接的結果として、せっかく判例の着実な進歩のあとを摂取して実務界に定着し、かつ、学界からも世論からも時代の要請に添うものと肯定的に評価されていた先例である一〇・二六判決、四・二判決をくつがえしたものであった。その特徴は過度の政治性と論理の脆弱性であり、判例理論をすでに克服された古い段階に無理やり逆もどりさせたにすぎなかった。それゆえジャーナリズムから四・二五判決の場合は「石田クーデター判決」と、そのあまりに露骨な政治性を衝かれ、憲法学者から判例変更の合理性、妥当性に集中的な疑問を投げかけられたのは、最高裁判例として、はなはだ不名誉なことであった。

その意味でも、四・二五、五・四判決らの逆転判決は、決して社会的有効性と説得力を持つものではない。

もとより、最高裁としても、集中的に投げかけられる批判の声に最後まで眼をつぶることはできない。

果たして、当審で昭和五六年四月九日下された全専売山形事件判決について、結論的には仙台高裁の懲戒処分認容の判決を維持したものの、三裁判官から注目すべき意見が出された。

団藤裁判官は、公企体等では「争議行為を当然に違法とみてこれを懲戒の理由とすることは許されない」、「ことに日本専売公社は、他の二公社に比較して事業の公共的性格が弱く、その職員の争議行為を制限する理由もそれだけ弱いものというべきであるから」「本件懲戒処分をただちに正当と認めてよいかどうかについては、疑問の余地がないではないと思う」と。

中村裁判官は、前記大法廷判決がスト禁止合憲の根拠として「財政民主主義の建前上、憲法二八条に定める労使間の協議による勤労条件の共同決定を目的とする団体交渉権等は、この場合に妥当する余地がない」というのに対して、「憲法二八条の団体交渉権等はもっと広い弾力的な内容をもつものであり、又、いわゆる財政民主主義の原理もしかく、硬直的なものではないと考えるので、この見解には直ちに賛同することができない」と。

谷口裁判官は、「専売公社の職員及び組合については、専売事業の公共性の特質にかんがみ、その正常な運営の確保と専売職員の労働基本権の保障とを調和させた立法政策が望まれることは、理解できないわけではない」という。

三裁判官の意見は、誰の目にも大法廷判決の弱点を明らかにした。「厚い」と思われていた最高裁の壁にもはっきりとひびが入ったのである。

当審としては、これら意見をさらに発展させ、かつ、逆転判決の脆弱な論理に安易に左袒することなく、あくまで良心と信念に従った審理を尽され、歴史の批判に耐えうる判決を下されるよう切望する次第である。

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